鼓動のように、低い音が遠鳴りに脈打つ。
その音を目指して、カエンは山道を下っていた。時折肌を撫でるのは、昼間の暑さを忘れたかのようなひんやりとした夕暮れの風。微かに秋の匂いを含んでいる。鬱蒼とした木々の間からは、ちらちらと淡い光が見え隠れした。麓の町の提灯灯りだ。まだ暮れなずむ町なかでは、その橙色の灯りは夕焼けの明かりに溶けてしまいそうに薄暈けている。
つづら折の山道を、下り、折れるたびに、音と灯りは近くなる。遠鳴る鼓動に合わせるように、カエンは歩き慣れた山道を下る。
木々に囲まれた薄暗がりが途切れ、覆いを外すように視界が開けた。道が町に向かってせり出すように一際大きく湾曲する場所。疎らに生えた木々の間からは、町が遮る物なく眼下に広がり、音と灯りが鮮明になる。
低く空気を震わせて、踊るように響くのは太鼓。高く細く、うねるように絡みつく篠笛。跳ね回るように調子を取るのは鉦の声。
祭囃子は人の心を浮き立たせる。否、本来神々に捧げられるその楽の音は、人外のものの心をもざわめかせる。
もうどれだけ前かも分からないほど昔、人々に『火焔童子』と呼ばれていた頃にも、こうしてよく祭囃子に引かれるように山道を下りた。腹に響く太鼓の音は、血管を通して体中の血を沸き立たせでもするのだろうか。それが聴こえるとじっとしては居られなくなり、足は勝手に麓を目指した。
しかし、火焔童子が麓まで下りることは無かった。
今と同じような見晴らしの良い場所で、松の大木の横枝に腰掛け、じっと麓の村を見下ろしていた。その時の景色と眼前のそれとを重ねるように、カエンは傍らの樹に手を掛けて、食い入るように町を見下ろす。
神社の周りには色とりどりの祭りののぼり。火焔童子の頬を撫でて里に吹き降りた初秋の風は、手遊ぶようにそれらをはたはたとはためかせる。人の暮らすちっぽけな家々からは、煮しめにすしと、旨そうな祭りの馳走の匂いが立ち昇る。祭囃子に引かれるように、神社には豆粒のような人間達が集まっている。普段おのれが食糧としている人間達が。
それでも火焔童子がそこへ下りて行くことはなかった。祭りの間だけは、どんなに腹が減っていても、そうして松の木の上から食い入るようにただ眺めていた。
自分がそこへ行けば、祭りが終わってしまうから。祭囃子が止んでしまうから。だから一人でただじっと眺めていた。
幼い子供が、親に手を引かれて歩くのが見えた。下ろしたての晴れ着の袖を嬉しそうにひらひらとさせ、真新しい下駄の音を響かせるように。その音がここまで聞こえるはずもなかったが、火焔童子の耳には聞こえたような気がしたのだ。からころと、弾むようなその音が、楽しげに笑う幼い声が、それに答える親たちの声が。
火焔童子は、いつまでもその親子を見つめていた。木肌に爪が食い込むほどに手に力を込め、ただいつまでも、じっと手を繋いだ親子を見つめていた。
※ ※ ※
「見てるだけじゃ、しょうがないですよ」
その声に我に返ると、数歩先で姿月がこちらを振り返っていた。いつまでも町を眺めたきり動こうとしないカエンを呆れた顔で眺めている。暮れなずんでいた町には宵闇が降り始め、提灯灯りが明々と輝きだしていた。
「ほら」
苦笑と共に、差し出された左手。
――何かよこせとでもいうのか?
カエンは訝しげに眉根を寄せた。
「何のまねだ」
「手を繋いでいないと、誰かさんがはしゃいで突っ走って迷子になっちゃう可能性が高いですから」
そう言うと差し出した手はそのままに、カエンから視線を外し、町を見下ろす素振りで逆の手を額にかざす。
「大分賑わい出したようですねぇ」
そう話す背中と、差し出された手を順に見比べて、それから自分の右手を見つめ、また姿月の背中を凝視する。
「……財布係とはぐれたら、困るからな」
ぼそりと吐かれた言葉と共に、ためらいがちに乗せられた手は、一回り大きな手で温かみと確かな力をもって包まれた。
「さて、行きますか」
その言葉を聞き終えるより先に、カエンは姿月の手を引いて走り出す。下ろしたての浴衣の袖を翻し、真新しい下駄で山道を蹴って。引きずられるように遅れて走る姿月が呆れたように声をかける。
「祭りは逃げやしませんよ」
「おまえが、見てるだけじゃ仕方がないと言ったのだろうが!」
振り向きもせずに走りながら返された言葉は、顔を見ずとも声と同じく弾んだ表情から出たものと容易に予想がつき、姿月の呆れた顔に笑みが混じる。
祭りの灯りがどんどん近くなる。それにつれて大きくなる祭囃子に、人々のざわめきが混じり始める。
祭囃子は人の心を浮き立たせる。人の子の姿をした鬼の心をも浮き立たせる。
【おまけの話】